卑屈になりきれない日々

自称コミュ障の卑屈になろうとして、なりきれていない、そんな日々を徒然に記します。少しでもあなたの心が軽くなったり、アイデアの足しになったり、楽しみになれたり、とにかく読んでいただければ幸いです。

思考を止めない

Twitter で、とても悲しいトレンドを見た。野次馬っぽくなるため、余り詳しく物事を取り上げて、ここぞとばかりに自分の考えをひけらかすのはしたくない。が、感じたことを記したいので、簡潔にトピックだけ述べる、自殺に関するものだ。

公の場で起きた自殺に関して、それが迷惑か、またその場面を写真に収めてSNSに投稿する人々の是非を問う、そのようなものだった。


悲しくなったのは、このトピックに触れる際に、自身の考え、感じ方を話すのは構わないが、他者の考えを否定しにかかる姿勢というか、そういうものに関してだ。


センシティブな内容だからこそ、概念というか、人の考え・思考というものが浮き彫りになるし、そこを否定できることによって自身の地位の一時的優越感に浸っているような (実際は、否定もできておらず、ツイート主の論旨も汲み取らないようなものが多いが) 、なんというか、やるせなくなった。

そもそも、人が亡くなったことに関して、関係が無いにしろ、粛々とまではいかないにしろ、少し気を払いたくならないものだろうか。なんというか共感性が足りていないというか、想像力の欠如、というものをリプライ欄で垣間見てしまったことである。


悲しくなったこともそうだし、こうやって、どうしようもないやるせなさというか、悲しさというか、そういうものを目の当たりにしたときに、どうしても

"嫌だ、どうしようもない、考えると悲しくなる" と感じてしまう。

思考を止めたいし、みないようにして楽しく生きることはできるかもしれない。続けたって何かが変わる訳でもないし。

でもどこかで、また出会うかもしれないし、出会った時に自分はどう受け止めれるか、又は行動にも移せるかもしれない。そんないつかに備えて、思考は止めずにいたいと思う。

止めてしまいたくないし、止めてしまうほど悲しいことがあるのか、とも思う。